小網町短信

第9回 2013.8.16

◆変わるもの、変わらないもの 〜発足当時のこと~

 映文連は、今から60年前、1953年に誕生した。テレビの本放送開始も同じ年、テレビの歴史を辿る記事や番組を多く目にするが、短編映像の映文連もちょうど同じ年に誕生したのである。
 事務局に関わってまだ数年、当時の様子を実際に知る由もないが、資料を繙くとその頃の様子を伺い知ることはできる。
1953年といえば、2月1日にNHK東京テレビがテレビ放送を開始、8月28日には、日本テレビ放送網も民放初の放映を開始。朝鮮戦争の休戦協定締結。伊藤絹子がミス・ユニバース・コンテストで第3位に入り、八頭身ブームが起こる。映画界では『君の名は』(松竹)が大ヒット。“真知子巻き”が流行った。日本初のスーパー・マーケット「紀ノ国屋」が東京・青山に開店したのもこの年、国内は戦後の混乱も収まり、経済的にも立ち直りをみせた時代であった。


 映文連は、その年の3月5日、教育映画総合振興会議の席上、製作者の団体結成が決議され、4月25日、築地木挽館(現在、新橋演舞場の向こう側、旧日産本社のあるところ)で設立総会を開いたと伝えられる。発足当時の名称は、「教育映画製作者聯盟」。会員は45社、任意団体として発足であった。


 初代事務局長・阿部慎一氏の言葉によれば、発足当時、専任の事務局員はなく、教材映画製作協同組合参事の阿部氏と、日本映画協会職員のNさんの兼務でスタート。事務室は、日本映画協会の建物の一室で、窓を開ければ、隣の木工場からオガクズが飛んでくるような、薄暗い部屋だったと言う。昭和30年に阿部氏が専任となり、事務局員を採用、事務室も同会館2階の部屋に移り、独立した形をなしていった。冷暖房つきの鉄筋コンクリートのビルの部屋に移ることができたのは、昭和36年だったそうだ。


 誠に慎ましやかなスタートであったが、事業活動は活発に行っていた。今、我々は「映文連アワード」を主催し、短編映像の顕彰・発信につとめているが、当時も同じように短篇映画の上映会を頻繁に開催し、海外へも発信しようとしていた。
 例えば、昭和30年下半期の事業報告には、特記事項として下記が記載されている。
(1)教育映画祭の開催に協力し、効果的成功を収めたこと。
(2)ジャーナリズム試案を定期的に開催し、関西(大阪)にも定期試案を行うようになったこと。
(3)海外輸出向教育映画目録を作成したこと。
(4)地方教育組織運営に関する法案の対策を立てたこと。
前年度に引き続き、「テレビ上映の教育映画の窓口一元化強化」「朝日文化映画の会」他の直接啓蒙活動の継続。


 (3)については、海外向け英文作品リスト(117作品)を作成し、5,000部を印刷、外務省を通じ各国へ配布。国際映画祭参加招聘は頻繁になり、リストの交換や情報交換により、日本文化の海外紹介は、活発に行われようとしていた。今、経済産業省や総務省は、“クールジャパン”と称して、日本文化の海外発信に力を入れているが、何も今に始まったことではない、ずっと以前から行われていたわけである。


 国内的には、新聞報道関係への試写が活発に行われ、前期7回、後期16回も試写会を開き、新聞・通信・雑誌等のジャーナリズム関係者に新作をお披露目している。しかし、「再難点は会場の問題であり、この為には連盟自体の試写室をもつことが必要であろう」と締め括られ、今も昔も会場の問題に頭を悩ませていたことが伺える。


 また、昭和30年8月から連盟と朝日新聞社、伊勢丹と共催で「朝日文化映画の会」を開催、新作文化映画の紹介を月1回以上行っていた。会員相互の自主的な希望から「友の会」が組織され、当時の会員数は、942名。構成メンバーは、主婦292名、学生253名、会社員101名、教員89名、自由業90名など。年代は20代が最も多く308名、30代181名、40代141名、10代124名と、当時、たくさんの若者たちが文化映画に関心を寄せていたことがわかる。
 今、映文連アワード受賞作品上映会に来場する短編映像ファンは、どちらかと言えば中高年が多く、この点は少し違うかもしれない。


 60年の時は流れた。変わるもの、変わらないもの・・・、不十分かもしれないが、脈々と流れるその志の一端を我々も担っているのだと思う。
もはや映画全盛期ではないが、啓蒙活動は続いていく。
その精神を受け継ぎつつ、今日的状況を踏まえ、短編映像を発信していきたいと思う。


 創立60周年を迎えた映文連は、記念事業の一環として、この8月に「あなたが選ぶ短編映像ベストテン」の募集を開始した。
 60年前、テレビ放送が始まったとはいえ、放送時間は1日にわずか4時間足らず、受信機の契約台数は全国で866台であった。短編映画や文化映画を上映してくれる映画館はなかったが、教育映画を中心に短編映画は数多く作られ、その年の製作本数は377本と伸び盛りであった。第1回教育映画祭(1954)では、『蚊』(岩波映画製作所)、『月の輪古墳』(月の輪映画製作委員会)が、第2回教育映画祭(1955)では、『かえるの発生』、『ひとり母の記録』、『教室の子どもたち−学習指導への道』(3作とも岩波映画製作所)が最高賞を受賞している。


 今回、「あなたが選ぶ短編映像ベストテン」を募集するにあたって、これまで映文連が紀伊國屋書店と共同企画を進めてきた「文化・記録映画ベスト100」や「ドキュメンタリー映像集成」、最近では「映文連アワード」を始め主要な短編映像祭の上位受賞作品から選び、参考作品リストを作成してみた。上記の作品タイトルも一部含まれている。このリストは約180作品であるが、勿論、このリスト以外に膨大な短編映像が生み出されてきた。
 これを機に短編映像の歴史に思いを馳せ、あなたが素晴らしいと思う作品、或いは好きな作品でもよい、是非選んで頂きたい。

事務局 kiyo

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