大藤信郎について -短い評伝-

大藤信郎像の<明>と<暗>-短い評伝-

日本のアート(クラフト)アニメーション作家の草分け、大藤信郎(おおふじ のぶろう)の名は、最近では日曜日の夜のクイズ番組にも登場するようになった。
色セロファンを素材とした夢幻的な切り絵アニメーション「くじら」1953年(昭和28)が、カンヌ映画祭で惜しくも1位入賞は逃した(1位はアルベール・ラモリスの「白い馬」。「くじら」は2位) が、その独創性をピカソやコクトーが絶賛した、というエピソードは、もうひとつの代表作「くじら」「幽霊船」1956年(昭和31、ベネチア映画祭特別賞)の題名とともに、いまでは多くのアニメファンに知られている。

生粋の江戸っ子であった。1900(明治33)6月1日、東京浅草生まれの大藤信郎は、本名を信七郎といい、七人兄弟の末子であった(注1)。6歳で母と死別。幼少から病弱で家にこもりがちだった信七郎が、父の反対を押し切ってアニメーション(当時<漫画映画>と呼ばれた)を志したのは、18歳の時だったという。日本のアニメーション創始者の一人 、幸内純一(こううち すみかず)に弟子入りし、やがて代々木上原の自宅にスタジオを作る。その時、35mmカメラをはじめ、創作に必要な道具一切を買い与えたのは、長姉の八重であった。

1924年(大正13)「のろまの親爺」「花見酒」など、3本の短篇<漫画映画>を製作。(今回、国立近代美術館フィルムセンターが発掘した「煙り草物語」は、その中の1本である可能性が高い。)「花見酒」は、興行界に認められ、浅草電気館で封切りされている。


「こがねの花」

江戸千代紙を、切り絵人形の衣装や背景素材として使い始めたのは、一年の模索期を経て、1926年(大正15)公開の「馬具田城(ばぐだじょう)の盗賊」からで、続けて「孫悟空」「みかん舟」を発表する。その独創性が評価され、「馬具田城の盗賊」は新宿松竹館で、「孫悟空」は新宿武蔵野館でそれぞれ封切られた。「馬具田城・・」は、もちろん、その前年大当たりを取ったダグラス フェアバンクス主演の超大作「バグダッドの盗賊」の短編アニメ版である。

1927年(昭和2)ドイツの影絵映画「カリフの鶴」(エオワルド・シュマッツェル作)に刺激をうけたという影絵映画「鯨」(戦前白黒版)も武蔵野館で封切られた(注2)。いずれも長編劇映画との併映だが、松竹館や武蔵野館は当時一流の封切館である。観客は、ダグラス・フェアバンクスの快男子ぶりに魅了され、「黄金狂時代」のチャーリーの大活躍に喝采を送っていた。時代は、まさにサイレント映画の黄金期である。


「心の力」1931年(昭和6)より
黒ニャゴとちんころ平平

切り紙人形の衣装や背景に使われた江戸千代紙の華やかさを、白黒フィルムの制約下にある当時は、充分に生かすことはできなかったが、原画の鮮やかな色彩は、現在フィルムセンターの<映画遺産>常設展示室で、大藤自作の撮影台とともに確認することができる。

元来、切り絵の手法は、セルアニメ導入以前、日本の初期アニメーション共通の技法だったのだが、そこに江戸千代紙を用いたところに大藤の独創があった(注3)。人形の衣装や背景以外にも、初期~戦前期の大藤作品には、<江戸情緒>と呼べる要素がいくつもある。

「馬具田城・・」以来のキャラクター団子兵衛(だんごべえ)しかり。落語「田能久」による「こがねの花」1929年(昭和4)には、都会人らしい、シニカルな話に対する好みが伺える。レコード・トーキーに挑んだ「黒ニャゴ」(同年)に登場するネコには、どこか下町の路地裏を徘徊するノラネコのふてぶてしさを感じるし、ちんころ平平(へいべい)という子犬のキャラクターのモデルは、江戸玩具の犬張子である。(犬張子の玩具のことを、ご教示くださったのは、おかだ えみこ さんである。)

しかし、初期の幸福な時代は長く続かない。山口且訓・渡辺泰共著による「日本アニメーション映画史」は、<太平洋を渡ってきたトーキー旋風は、日本の動画界が苦心して咲かせた小さな花をむざんに散らしてゆく>と語っているが、トーキー化は、必然的にセルロイド板の普及を促すことにもなる。大藤初の本格的トーキーである「蛙三勇士」1933年(昭和8)は、初のセルアニメでもあって最早千代紙は使われていない。翌1934年(昭和9)の「天狗退治」では、主人公・団子兵衛がベティ・ブープそっくりの顔で登場するのに驚かされる。輸入映画で眼の肥えた観客にたいするサーヴィスを考慮せざるを得ない、創作の苦しみが垣間見える。

生前の大藤を知る人々は、これら戦前の江戸情緒を生かした滑稽アニメと、戦後の作品を代表するカラー版「くじら」、「幽霊船」に典型的にみられる人間のどす黒いエゴイズムや陰湿なエロティシズムを強調する<屈折した心理>との落差を指摘する。それは、ごく近しい人以外には、謎として意識されていたようだ。没後催された「偲ぶ会」の上映プログラムには、1938年(昭和13)「かつら姫」の製作以後「終戦まで作品録不詳」とある。


「マレー沖海戦」

その謎を解く鍵は、今回DVD『日本アートアニメーション映画選集』のための作品を収集する過程で観ることができた「マレー沖海戦」1943年(昭和18)にあった。対米英開戦の直後、英国艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを日本の海軍航空隊が撃沈した。そのアニメ映画化を、海軍省から委託されたのである。大藤は、このテーマに熱狂的に取り組んだ。同じころ、瀬尾光世のスタジオに、やはり海軍省から真珠湾攻撃アニメ化の委託があり、平行して製作が進んでいた。瀬尾に対するライバル意識は、当然はたらいていたはずである。やがて瀬尾の作品は、「桃太郎の海鷲」(同年)として戦時下の大ヒットとなるのだが、しかし、大藤が挑戦したのは「桃太郎の海鷲」のような動物を擬人化した漫画ではなく、影絵とセロファン切り絵の融合による、実写さながらの戦闘の再現であった。

白黒ながら、微妙な諧調で表現された夢幻的な大海原には、すでに戦後版「くじら」で用いられた技術のすべてがある(注4)。対照的に影絵で表現された爆撃機(<一式陸攻>=一式陸上攻撃機、葉巻型胴体が特徴)の機影、照準器をとおして見る敵艦の艦影は精巧を極めている。爆撃隊の出撃に”帽振れ”の挨拶をおくる山本五十六司令長官の姿も印象的だ(注5)。攻撃から撃沈へとたたみかけるショットの連続と、勝利の熱狂的な凱歌は、その迫真性と作者の打ち込みよう(戦争協力)の純真さを見せて壮絶・無惨であり、試写室の椅子のなかで背中が粟立つ思いであった。

公開は、「桃太郎の海鷲」(1943年3月25日)に遅れること約8ヶ月の同年12月1日である。『映画芸術』「昭和18年度優秀映画銓衡」(今日の『キネマ旬報』ベストテンに相当)では、「桃太郎の海鷲」が入選、その陰で「マレー沖海戦」は、ほとんど注目されずに終わったようだ。あるいは、’43年中の戦況の推移(注6)が、本土にあっても容易ならぬ局面と人びとに意識されるなかで、この作品は、時期遅れとみなされたのかも知れない。


「蜘蛛の絲」

思えば、戦前の大藤と戦後の大藤との<落差>は、戦時下の体験に深く根ざしていたのではないか。戦後の大藤は、人間の醜いエゴイズム、エロティシズムをことさらに強調する一面(「くじら」「幽霊船」)と、宗教的な題材に救いを求めようとする面を併せ持っていたように見える。(「釈迦の生涯」1949年(昭和24)、「蜘蛛の絲」1950年(昭和25)など)戦時下に負った深い心の傷、戦争協力への自己嫌悪、良心の呵責、それを背負い続けた後半生であったのだろう。

生涯、弟子をとらず、幼い日に母と死別して以来、一切の経済的な面倒をみ続けた長姉の八重、姪の芳枝を助手としての<家内工房>が創造の舞台だった。
1961年(昭和36)7月28日、61歳で永眠。弟の没後、八重は、「アニメーションを志す若い人たちを励ますために」財産を整理して基金を寄託、これをもとに毎日映画コンクールの中に「大藤信郎賞」が設けられ(1962年)現在に至っている。(文中敬称略)

大久保 正 (映像文化製作者連盟 前事務局長)
(2004年6月記)


(注1)
大藤自筆の略歴書によれば、「祖父大藤兵造は藤原兼保と称して徳川家の地差配にして、町人なれど苗字帯刀の御免なり」とある。飯田心美氏は、大藤の「父は蓄音機に関係し、レコードの吹込もやっていたというから当時としては新時代の商人タイプの方だろう」と証言している。(『朝日文化映画の会』会報77号)
(注2)
戦前白黒版の「鯨」は、衣笠貞之助の「十字路」と共にフランスに輸出され、大藤はヨーロッパで最初に名を知られたアニメ作家となる。(このほか、飯田心美氏によれば「馬具田城の盗賊」がソ連に輸出されて高く評価されたという話もある。)なお、戦前版「鯨」のプリントの所在は、現在のところ確認されていない。
(注3)
千代紙の使用について、大藤は「徳川時代に愛玩された模様紙で、元来は、和紙、木版、手刷りが本格で、その模様も単純、色彩も二色以下とされており、麻の葉(団子兵衛の衣装の袖に用いられている)、青海波(せいがいは)、豆しぼりなどがその代表です。発足後いちばん厄介だったのは模様を画面ごとに合せることで、そのコツが判らず大いに苦しみました」と語っている。千代紙は、江戸時代からの老舗(問屋)である伊勢辰に注文し、店も特注の図柄を作って協力したという。(飯田心美「文化映画雑記」『朝日文化映画の会』会報77、78号、( )の注釈は筆者)
(注4)
おかだ えみこ氏は、「マレー沖海戦」の波の描写と潜水艦の描写に、ウィンザー・マッケイの「ルシタニア号の沈没」(1918年、日本公開・1919年、大正8)を思わせる表現があり、大藤は観ていたはずだ、と指摘する。(筆者へのご教示による。)
(注5)
これは史実とは異なる(山本五十六は、この当時前線指揮の任に就いていない)が、大藤のイメージまたはオマージュであろう(シルエットは計3シーンに登場する)。有名な”帽振れ”の挨拶をおくる山本五十六の記録映像は、1943年(昭和18)4月ラバウル作戦時のもので、山本の戦死を伝えた「日本ニュース第155号」(同年、5月25日)が、作戦指揮をとる山本五十六を捉えた唯一のフイルムである。(「日本ニュース映画史」300ページ、毎日新聞社、1977年)
(注6)
年表を繰ると、1943年(昭和18)の戦況はおおよそ以下のようである。
〔前年大晦日〕12月31日  大本営、ガダルカナル島撤退を決定
1月2日   ニューギニア、ブナの日本軍玉砕
4月18日  山本五十六連合艦隊司令長官戦死
9月9日  イタリア、ムッソリーニ政権、連合国に無条件降伏
10月21日  「学徒出陣」壮行大会
12月10日  文部省、学童の縁故疎開促進を発表

「近代日本総合年表」第2版、岩波書店より
参考文献:山口且訓・渡辺泰 共著「日本アニメーション映画史」 有文社、1977年